はじめに:9月は「価格交渉促進月間」
中小企業庁は毎年9月と3月を「価格交渉促進月間」と定め、価格交渉・価格転嫁を促進するための広報や講習会、業界団体を通じた要請等を実施しています。
参考記事:価格交渉促進月間の実施とフォローアップ調査結果(中小企業庁)
月間終了後には多数の中小企業に対してフォローアップ調査を行い、状況が芳しくない発注者には事業所管大臣名での指導・助言も行われます。
つまり9月は、価格交渉を切り出す絶好のタイミングであると同時に、発注者側も価格協議への対応を意識せざるを得ない時期です。
以前の記事「賃上げしても利益を残す中小企業の経営改善」では、賃上げ原資を作る第一の柱として価格転嫁を挙げ、まずは自社のコスト構造を数値で可視化することが出発点になるとお伝えしました。
本記事では、その「数値化」を一歩進め、価格交渉の場で実際に断られないために何を準備し、どう伝えればよいかを具体的に解説します。
1. なぜ価格交渉は断られてしまうのか
中小企業庁の2026年3月調査によれば、価格転嫁率は全体で54.2%まで改善しています。
ただしコスト要素別に見ると、原材料費55.7%に対して労務費は50.0%、エネルギーコストは48.9%にとどまっており、労務費とエネルギーコストは転嫁が遅れがちな項目です。
転嫁できている企業とできていない企業の格差(二極化)も指摘されており、同じ業種でも交渉の準備次第で結果が大きく変わっている状況がうかがえます。
価格交渉が断られる典型的な理由は、次の3つに集約されます。
- 根拠となる数字がない:
「人件費が上がったから」「原材料が値上がりしたから」という説明だけでは、発注者側も社内稟議を通しにくく、協議が進みません。 - 自社のコストと市況の変化が結び付いていない:
最低賃金の改定額や原材料の値上がり率など、客観的な外部データと自社のコスト増加額が紐づいていないと、説得力を欠きます。 - 交渉のタイミングを逃している:
価格改定の効力発生日から逆算した準備ができておらず、交渉自体が後手に回っている。
2. 交渉前に準備すべき原価資料
中小企業庁の「価格交渉ハンドブック」(2026年1月更新版は取適法の施行にも対応)では、価格交渉を行うために準備しておくとよいツールや、交渉時に押さえておくべきポイントが整理されています。
これを踏まえ、交渉前に最低限用意しておきたい資料は次のとおりです。
① コスト増加の内訳資料
原材料費・労務費・エネルギーコストのそれぞれについて、いつ・どれだけ上昇したかを一覧化した資料です。
特に労務費については、最低賃金の改定額や社会保険料率の変化など、公的なデータに基づく数値を明記することで、「感覚的な値上げ要求」ではなく「客観的な事実に基づく協議」であることを示せます。
② 商品・取引先別の採算資料
全社の平均コストではなく、商品別・取引先別に採算がどう変化しているかを示す資料です。
中小企業基盤整備機構が無償提供している「価格転嫁検討ツール」や「もうかる経営 キヅク君」は、商品・取引先ごとの収支状況やコスト構造の変化を可視化し、価格転嫁の目安を検討できるシミュレーションツールとして利用できます。
登録不要でPCから操作できる点も、初めて原価の見える化に取り組む事業者にとって使いやすい特徴です。
③ 業界の自主行動計画・指針
労務費の適切な転嫁については「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」が公表されており、発注者・受注者双方が取るべき行動が12項目にまとめられています。
また、業界団体が策定する「自主行動計画」には、労務費の転嫁交渉のあり方や原材料費・エネルギーコストの転嫁に関する業界共通の方針が示されている場合があり、交渉材料の一つとして活用できます。
自社が加盟する業界団体の自主行動計画を事前に確認しておくと、交渉の説得力が高まります。
3. 伝え方のポイント:数字を「協議の土台」にする
資料が揃っても、伝え方を誤ると交渉は難航します。
ハンドブックや専門家の解説からは、共通して次のようなポイントが挙げられています。
- 一方的な値上げ通告ではなく「協議」の姿勢で臨む:
優越的地位の濫用や取適法の「買いたたき」に該当するおそれがある行為は発注者側にとってもリスクであり、誠実な協議に応じることが求められています。
受注者側も、根拠資料を示しながら協議を申し入れる姿勢が交渉を前に進めます。 - 転嫁を求める範囲を明確にする:
原材料費・労務費・エネルギーコストのうち、どの項目について、いくらの転嫁を求めるのかを具体的に提示することで、発注者側も検討しやすくなります。 - 価格交渉促進月間のタイミングを活用する:
9月・3月は発注者側にも価格協議への対応が業界全体で求められる時期であるため、この時期に合わせて交渉を申し入れることで、個別交渉よりも応じてもらいやすくなる可能性があります。 - 応じてもらえない場合の相談窓口を把握しておく:
全国のよろず支援拠点に設置されている「価格転嫁サポート窓口」では、価格交渉の進め方や原価計算・見積根拠の作成方法について専門家からアドバイスを受けられます。
また、取適法の適用が疑われる取引については「取引かけこみ寺(旧:下請かけこみ寺)」への相談も選択肢になります。
4. 建設業・製造業では取適法の枠組みも押さえる
2026年1月に施行された取適法(下請代金支払遅延等防止法及び下請中小企業振興法の改正)は、サプライチェーン全体での構造的な価格転嫁を目的としています。
取引先が製造委託等を行う中堅・大企業である場合、この法制度を根拠に価格協議を申し入れることが可能になっています。
ハンドブックの2026年1月更新版もこの取適法の施行に対応しているため、建設業・製造業の下請事業者は、旧版ではなく最新版を確認することをおすすめします。
5. 交渉前チェックリスト
実際に交渉の場に臨む前に、以下の項目を確認しておくことをおすすめします。
- コスト増加の内訳資料(原材料費・労務費・エネルギーコスト別)を数値で用意できているか
- 商品別・取引先別の採算資料を作成し、どの取引で転嫁が特に必要かを特定できているか
- 自社が加盟する業界団体の自主行動計画を確認したか
- 交渉を申し入れる時期(価格交渉促進月間等)を意識しているか
- 交渉が難航した場合の相談先(よろず支援拠点・下請かけこみ寺等)を把握しているか
これらが一つでも欠けていると、交渉の場で「根拠が弱い」と受け取られ、協議が先送りにされるリスクが高まります。
特に労務費は転嫁率が原材料費より低い項目であるため、他の項目以上に丁寧な根拠資料の準備が必要になります。
6. 原価の可視化は、価格交渉だけでなく経営改善全体の土台になる
前回記事でも触れたとおり、原価の可視化は価格交渉の準備に留まらず、省力化投資補助金など各種補助金の事業計画書作成の土台にもなります。
交渉のために整理した商品別・取引先別の採算データは、そのまま自社の経営改善計画の基礎資料としても活用できます。
「価格交渉のために原価を整理する」という取り組みが、結果的に賃上げ原資の確保や補助金申請にもつながる、という順序で経営改善を進めることをおすすめします。
FAQ
Q1. 原価計算のノウハウがない場合、どこに相談すればよいですか?
A. 全国のよろず支援拠点に設置されている「価格転嫁サポート窓口」で、原価計算や見積根拠の作成方法について無料でアドバイスを受けられます。
中小機構が無償提供する「価格転嫁検討ツール」なども、登録不要で利用できる入門的な手段です。
Q2. 価格交渉のタイミングはいつがよいですか?
A. 中小企業庁が「価格交渉促進月間」と定める9月・3月は、発注者側にも価格協議への対応が業界全体で求められる時期であり、交渉を申し入れやすいタイミングの一つです。
ただし、自社のコスト増加が発生した時点で早めに準備を始め、月間を待たずに協議を申し入れることも可能です。
Q3. 取引先が価格交渉に応じてくれない場合はどうすればよいですか?
A. 一方的な値上げ拒否が独占禁止法の優越的地位の濫用や取適法の「買いたたき」に該当するおそれがある場合は、「取引かけこみ寺」など公的な相談窓口に相談することができます。
相談内容や相談を受けたこと自体は秘密として扱われる仕組みが整っています。
おわりに:まずは「原価の見える化」から
価格交渉を成功させる鍵は、交渉術そのものよりも、交渉に臨む前にどれだけ客観的な原価資料を準備できているかにあります。
9月の価格交渉促進月間は、その準備を後押しする格好の機会です。
当事務所では、価格交渉に必要な原価資料の整理から、省力化投資補助金をはじめとする各種補助金申請、経営改善計画の策定まで一体でご支援しています。
「何から手を付ければよいか分からない」という段階からでも構いません。まずは自社の商品・取引先別の採算状況を一緒に整理するところから、ご相談ください。
